2008年05月13日

『日本人のしつけは衰退したか』




 今回は『日本人のしつけは衰退したか 「教育する家族」のゆくえ』をご紹介します。この本では、青少年による凶悪事件が報道される中、すっかり定着した「家庭の教育力が低下している」というイメージを学術的に検証し、実はそのイメージは必ずしも正しくないということを明らかにしたうえで、あらためて家庭の教育のあり方を見つめなおそうとしています。

 私自身、これまで「家庭の教育力の低下」を疑ってはいなかったので正直驚きの結論でしたが、「青少年の凶悪犯罪の増加」との因果関係が必ずしも成り立つわけではない、というのは直感的に理解できるものでした。

 さて、「家庭の教育力が低下している」という命題は、一般に次の3つに分解されると考えられます。

1、昔は家庭のしつけが厳しかった

2、最近はしつけに無関心な親が増えている。

3、家庭は外部の教育機関、特に学校にしつけを依存するようになった。

 ここでの「しつけ」とは、「望ましい(とされる)人間を作ろうとする、子供に対する外部からの作用全体」のことを指します。また、青少年による凶悪事件との関連として、

4、近年、青少年の凶悪犯罪が増えており、

5、家庭の教育力の低下はその大きな原因の1つである。

という認識が見られます。これら5つの命題を、本書では丁寧に検証しています。

 まず、「昔の家庭のしつけが厳しかった」のかというと、実はしつけの厳しい家庭はむしろマイノリティでした。戦前や高度成長前の日本社会では家庭の地域差や社会階層差が大きく、一部の都市のインテリ層や富裕層は確かにしつけに厳しかったけれども、農村社会においては子供を放任する傾向にありました。子供は労働力として期待され、労働についてのしつけは厳しかったですが、それ以外の場面において親はむしろ、労働に忙しくて子供にかまってやる時間すらなかったのです。

 実際、複数のアンケート調査で旧来の習慣を残す農村で放任もしくは学校依存の傾向が強く、新しく台頭した都市部の層のほうが家庭教育を重視しているという結果が出ています。つまり、「昔はよかった」と言われるときにイメージされやすいかつての農村社会では、家庭教育は重視されていなかったし、実際に行われていなかったのです。

 また、当時の学校制度は近代化のために政策的に導入されたものであり、学校で教える内容は農村社会において求められるものとは乖離していました。ただ、農村の親は学校に子供を預けることができた(つまり、放任できた)ので、その教育内容については関心を払っていなかったといいます。

 以上のように、日本の大部分の農村では戦後まで、家庭は子供の教育を担わず、むしろ学校に依存していました。ただ、発言力のある政治家や学者、文化人は当時の富裕層出身である場合が多いため、彼らのしつけ観が、一般化されて広まってされた可能性があると筆者はいいます。

 次に、「最近はしつけに無関心な親が増えている」、そして「学校にしつけを依存するようになった」のかというと、これも事実誤認であると筆者は述べます。

 大正時代、都市部に登場した富裕な「新中間層」は、それまでの農村社会とは異なり、親が子供の教育に責任を負うという「教育する家族」でした。また、学歴が子供の将来に直結することを認識し、受験に関心をもち、家庭と学校の教育における目標が一致するようになりました。都市部においては地域との関わりも薄く、むしろ地域は子供にとって危険の多い、関わるべきではないものとみなされました。

 この「教育する家族」像が、現代では新中間層の拡大と共に社会全体に広がっています。親は学校に依存するどころか、学校の運営に積極的に注文をつけ、さらには塾や習い事に通わせるなど、むしろ外部の専門家へのアウトソーシングまで含めた子供のジェネラルマネージャーになっている、と筆者は述べます。

 それではなぜ、しつけに不安を感じる親が増えているのでしょう。
ひとつには、子供の教育に最終的な責任を負うがゆえに、理想と現実のギャップ、すなわち「完璧な親」になれない親と、「完璧な子供」に育ってくれない子供が生じてしまうことに起因すると考えられます。さらにマスコミや専門家が、青少年の凶悪犯罪を報道するたびに「家庭の教育」を原因に取り上げるため、自分の家庭でも教育を誤るとそのような子供ができてしまうという意識が芽生えてしまっています。

 また、しつけや家庭教育に関するイデオロギーの多様性も原因にあげられています。新中間層の登場以来、家庭によって児童中心主義、厳格主義、学歴主義という相容れない3つのイデオロギーが存在し、その対立が「自分の家のしつけはしっかりしているのに、社会全体ではしつけがうまくいっていない」という意識を生んでいます。

 最後に、「家族の個人化」もまた原因と考えられます。近年の高学歴、高階層では子供の自立、すなわち「個人」の育成を目指していますが、「個人として自立した」子供のプライバシーが確立されることは、皮肉にも子供のありかたに干渉する「教育する家族」像と真っ向から対立することなのです。

 次に、本当に「近年、青少年の凶悪犯罪が増え」たのでしょうか。実は、殺人による検挙少年の推移を見る限り、1990年代においてその数は1960年代の4分の1程度にすぎません。先進諸国と比べても、日本はきわめて青少年の凶悪犯罪が少ない国であるといえます。

 昔も、少年による猟奇的な殺人事件もあれば、いじめによる自殺も存在していました。ただ、それらが大きく報道されることもなかったし、あくまで「犯罪」として扱われ、その原因として加害者少年たちの「心」の問題が取り上げられることはありませんでした。現代の大人は、かつて自分の身近にあった軽度のいじめと、近年大きく報道されるようになった凶悪事件を単純に比較し、「かつては少年たちはこのようなひどい事件を起こさなかった」と錯覚しているのではないかと筆者は述べています。

 なぜ、青少年の犯罪が大きく取り上げられるようになったか、その理由は大きく2つあります。1つ目に、「教育する家族」像が広がり子供の教育に熱心な親が増えると、自分の子供を守るために必然的に少年犯罪や非行問題に敏感になったという点。2つ目に、高度経済成長を経て中流階層が拡大し、人々の生活が安定した結果、その安定をおびやかすような社会秩序のかく乱に過敏に反応するようになったという点。

 特に2点目は、「家庭の教育力の低下」が青少年の犯罪の大きな原因とされることに説明を与えることができます。それらの社会秩序のかく乱に対して、人々はその原因や動機を理解できず、大きな不安を抱くようになりました。そのような中で、個別の事件の背景を考えるのではなく、それらの青少年の犯罪は「家庭のしつけに問題があった」という単純明快な説明を与えることは、人々の不安を払拭する効果があったと考えられるのです。

 このように考えると、私たちは多くの「根拠のない」前提に立脚し、それらの前提を「常識」ととらえていることがわかります。「家庭の教育力の低下」というものの見方は、一部の発言力のある文化人の意見が一般化したものであるとするならば、そのような常識には合理的な根拠はありません。「教育する家族」像も、決してそのイデオロギーが正しかったから広まったのではなく、そのイデオロギーとは無関係のところで新中間層が拡大したために、それに伴ってマジョリティになったに過ぎないのです。

 現代の資本主義社会も、決して資本主義が「正しい」から広まったのではなく、そのようなイデオロギーとは関係のないところで(まったく無関係とは言い切れませんが)アメリカが世界を制したために、「結果的に」広まったと考えることもできます。(もちろん、資本主義が優れていたためにアメリカが冷戦後の世界を制したと考えることも可能です。)

 ただ、これから教育像を探究していくにあたって、自分たちが暗黙のうちにもっているさまざまな「前提」を洗い出し、その妥当性も含めて検証していく必要があるのかもしれません。

 家庭のしつけも同様です。総中流時代とはいえ、現代の家庭のあり方はなおも多様性に富んでいます。子供のしつけに時間・お金を割ける家庭もあれば、それができない家庭もあり、しつけのイデオロギーも家庭によって異なります。その中で、一様に「青少年の凶悪犯罪」や「家庭の教育力の低下」を論じることはできないという前提を押さえたうえで、これからの家庭のしつけや教育のあり方を考えなければなりません。


(written by tomoya)
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『奇跡と呼ばれた学校』




 今回は『奇跡と呼ばれた学校』をご紹介します。これは京都市立堀川高等学校の校長である著者が、堀川高校での学校改革の取り組みについて書いたものです。堀川は国公立大学への進学者が2001年の6人から2002年に106人にまで増えたことで、全国的に注目を集めた学校です。

 この進学実績はどのように達成されたのでしょうか。結論を述べれば、その答えは「探究科」という専門学科の設置と、そこで1999年から導入された「探究基礎」という課題探究型の授業にあります(2002年より、総合的学習の時間の導入に伴って普通科にも導入)。

 堀川は京都市の教育改革のパイロット校でした。京都市は1995年の答申で、21世紀を「自立した『個』が『選択』する時代」と規定し、パイロット校である堀川に「自ら目的を選択する」、そしてその目的の実現のために「知識を経験を通じて知恵に変換する」ことのできる生徒の育成を求めました。一方で、税金で成り立っている市立高校である堀川は、「大学の進学実績をあげる」という市民の要望にも応える必要がありました。生徒の大学進学を実現し、かつ大学の先にある社会に通用する人間を育てる。それに応えるのが「探究科」の設置であり、「基礎探究」という授業でした。

 堀川が合理的なのは、「大学進学」を目標として、大学のゼミでの探究活動を先取りした「探究基礎」を導入し、また「社会で通用する人間」を目標として、学校という擬似社会の運営に生徒を参画させたことです。後者は、生徒による「探究基礎委員会」に「探究基礎」の授業の運営を担わせたり、同じく生徒による「研修旅行委員会」に海外研修旅行のための旅行会社との交渉などにあたらせていることなどです。これらは、大学や社会で求められるスキルを生徒に身に着けさせるとともに、大学に進学し、社会で生きていくことを動機付けることができます

 ここで、この「探究基礎」の内容をご紹介しましょう。「探究基礎」では、堀川の規定する4つのメディアリテラシーである「受け取る力」「考える力」「判断する力」「表現する力」に加え、主体的な課題設定能力・課題解決能力の獲得を目的とした課題探究型の授業を1年生の前期から2年生の前期までの1年半、行います。

 1年生の前期には課題探究のための基礎的なスキルを身に着けます。「環境」などのテーマでグループ学習を行い、グループ論文を執筆します。その過程でディベートを行い、仕上がった論文の内容については英語でのプレゼンテーションを行います。ディベートやプレゼンは校内大会があります。

 1年生の後期には課題解決能力を身に着けます。クラスを離れてゼミに所属し、理数系ならば実験を通じた仮説検証やデータ分析を、文系なら社会調査などを通じて課題解決を経験します。

 2年生の前期には課題解決に加えて課題設定能力を身に着けます。ここでは個人で自らの取り組むテーマを設定し、実験や調査を行い、結果をポスター発表でプレゼンし、論文を執筆します。まさに、大学のゼミや研究室での探究活動そのものですね。

 この「探究基礎」を通じて、生徒は自分が大学で学びたいテーマを発見します。そして、偏差値ではなく目的で大学を選ぶため受験勉強においてもモチベーションが高く、3年生は文化祭などの行事で完全燃焼しながらも、自らの進路を達成していきます。

 この「探究基礎」は「総合的学習」の先駆けともいえます。しかしながら、東京大学の苅谷先生が指摘しておられたような「教師や学校側の準備不足」という問題は、堀川にはありませんでした。というのも、この「探究基礎」の導入のために2年間にわたって準備や検討を行い、教師のスキルアップを図るなど、入念な事前準備をしていたのです。

 さらに、学校内に教員による研究開発部をもうけ、常に指導方法や評価方法を研究し、授業の主体となる担任をサポートしています。また、国からSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に指定されたことで、その予算で大学院生をTA(ティーチングアシスタント)として採用できるようになりました。「探究基礎」は充実した準備やサポートに支えられているのです。

 探究科の設置は、進学実績の向上という形でめざましい成果をあげましたが、その裏にある、数値化できない力がついていることのほうが重要であると著者は述べています。ただ、実際には探究科という専門学科はそれまでの学区の枠を超えて京都市全域から生徒を募集し、選抜しているため、生徒の入学時点での学力がそもそも向上している点も考慮しなければなりません。しかしながら、課題探究型の授業の導入によって生徒のモチベーションが上がり、主体性やコンピテンシーが伸ばされているのも事実でしょう。

 堀川は社会の要望、市民の要望、生徒の要望を実現することに成功した、先進的なモデルであるといえると思います。


(written by tomoya)
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2008年05月03日

学校の役割 「生徒を社会化させること」

講義前の風景

 そもそも学校は明治政府が西洋に追いつくための施策として学制を敷いたところから出発しているが、それがいまや若者に何か問題があるたびに何でもかんでも責任を追及されるようになってしまった。

 しかし当然のことながら学校も万能ではない。それでは現在の学校が担っている教育とは何なのであろうか?その構成要素はなんであろうか?今日はそのことについて08年05月02日に東京大学本郷キャンパスで行われた苅谷剛彦教授の講義を元に考察してみようと思う。

 現在(2008.05.02時点)の学校が担っている教育要素は大別すると次の3点と思われる。

★ 生徒へ知識を伝達すること
★ 生徒が知識を応用できるようにすること
★ 生徒を社会化させること


生徒へ知識を伝達すること

 これは旧来の学校教育なので特に述べるところはないだろう。

生徒が知識を応用できるようにすること

 これは最近導入された「総合学習」が担っている要素といえるだろう。この要素についても議論を深めたいが、今回は割愛する。

生徒を社会化させること

 例えば「テスト」について考えてみよう。皆さんも「テスト」を受けた経験はあると思う。そのテストだが、当然のこととして次のようなルールがある。

★ カンニングしない
★ 定められた時間を守る
★ 自分の名前を書く
★ 答案を提出する

 さて、これらの共通概念をいつどこで身につけたのであろうか?読者の中にテストのルールを教えられた記憶が定かな方はおられるだろうか?大半の人が明確に教えられた記憶がないのではないだろうか。(講義でもアンケートがとられたが、30人程度の受講生のなかで明確に覚えている人はいなかった。)

 しかし、明確に教えられていないにも関わらず、またバラバラの先生から教わったにも関わらず、テストのルールは誰もが共通して身につけているのである。これは大変すごいことと言ってよいだろう。

 ピンとこない読者には次のような場面を想像していただきたい。あなたがはじめて「テスト」というものに触れる小学一年生に「テスト」というものを教えなければいけないという場面である。

 このような状況では生徒にとってこれまで触れたことのない新たな状況が導入されたわけだから、「テスト」というものがどのようなものなのかルールを明示的に表現して伝える必要がある。例えば次のようなものである。

★ 静かにしなさい!椅子に座りなさい!
★ 答案にちゃんと名前を書くように!
★ 他の子の答えをみちゃいけません!

 また、そのテストにおけるルールだけではなく、テストの結果についてもそれがどのようなものなのかを伝える必要もある。参考文献にあがっていたのは次のような事例である。

★ 100点とった人、手を上げて!
★ うれしい人、手を上げて!

 そもそも「テストで100点を取る=うれしい」を結びつけるのは難しいが、実際に手を上げさせるなど形式的な行為を通じて「100点=うれしい」をスムーズに結びつけさせているのが上記の事例といえよう。(もちろんこのような事例が全ての学校で行われているわけではないであろうが、「生徒を社会化させる」効果的な方法をあらわしたものといえよう)

 このように「生徒を社会化させること」が学校の担っている重要な一要素である。この「生徒を社会化させること」は社会に通用するための一般常識を教え込むことともいえる。これは「高等数学の知識」などとは異なり、身に着けていなければ文字通り社会で通用しない類のものである。(このような最低限身に着けなければいけない事柄をネガティブリストと呼ぶ。逆にあればあっただけよい事柄はポジティブリストと呼ぶ。)

 さてここからは私個人の仮説である。

 よく実社会とリンクしていないと言われている学校教育だが、実際にはネガティブリストに含まれる要素は相当リンクしているのではないだろうか?

 例えば「テスト」に関するルールを知っていること。これは江戸時代ならばあまり役に立たなかったものだろうが、明治以降の日本においては知らなければ実社会では不利益をこうむるようになっている。例えば民間における入社試験、昇給試験などを想像してみていただければご納得いただけるであろう。

 このようにネガティブリストにあげられる事柄は、必ず身に着けなければいけない事柄である。巷で「教育があぶない。教育を改革しよう」とよく喧伝されるが、このようなネガティブリストが考慮されているのはあまりお目にかからない。

 しかしネガティブリストのほうがポジティブリストより重要であり、このネガティブリストを考慮しなければ、全体の最適化はおぼつかないのではないだろうか。

 弊社アイディアラボは未来のあるべき教育をも探求している会社でもあるが、今後の提言活動においてネガティブリストの存在を留意してゆきたいと思う。

 ※なおネガティブリストについては、苅谷先生の「欲ばり過ぎるニッポンの教育」に詳しい。参考にされたし。


(written by m.end)
ラベル:思想研究
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杉並区立和田中学校「よのなか科NEXT」見学 その2

 今回の「よのなか科NEXT」に参加して感じたことですが、(その1にも書きましたが)生徒の考えを否定しないことが大切だと思います。生徒の意見を否定することは大人の狭い思考の枠で生徒の考えを縛ってしまうことになり、さらには「どうせ否定されるから」と生徒の新しい発想もアウトプットされなくなってしまいます。

 「この人には何を言ってもいいんだ」と思える大人との関係を築かせること。確かに教師が相手では、「先生と生徒」という絶対の関係がすでに刷り込まれていますから、難しいかもしれません。そこで地域の方や大学生のお兄さんお姉さんが重要な役割を担うわけですね。全て藤原先生の本に書いてあったような気がしますが、なるほどと腹に落ちたように思います。

 もっとも、そんな関係を築くのは大人の側にとっても試練なのではないかと思います。少なくとも私には、相当ハードルの高いことに思えますね・・・この授業を成功させるには、大人の側のスキルも要求されているように思います。

 さらに、生徒がちゃんと課題に取り組んでいる分にはいいのですが、後半のスポーツグループのようにそもそも課題そっちのけだと、とても難しいです。というのは、すごく個人的なことですが、私は子供を叱るのが大の苦手なのです・・・。親戚の子にしても、以前ボランティアで障害をもつ子供たちを遠足に連れて行く企画に参加したときもそうでした。

 叱ることに抵抗があって、なるべく生徒たちのやりたいようにやらせようとしていたら、結局彼らに課題に取り組ませるどころか悪ふざけをどんどんエスカレートしてしまい、思わず大声で厳しく叱ってしまう。叱り方が下手なのだと思います。

 きっと適切なラインを見極めて叱れば、ほんの小さな「叱り」で済むんですよね。彼らを否定せずに、うまく課題に導くことができればいいのですが・・・。この辺、やっぱりお父さんやお母さんが上手なんじゃないでしょうか。何にせよ、グループをリードしようと思うと大人には相当のスキルが要求されます。

 恐らく、授業の目的は自分が「好き」なことを支えている職業がたくさんあり、それぞれがお互いに関連し合っていることを知り、自分の適性を踏まえながら、広い視野で職業選択ができるようにするということなのだと思います。自分自身、中学生のときには世の中にどんな職業があるかなんて意識したこともなかったし、勉強するのは教師がそう言うから、もしくは高校に進学するためだと思っていましたから、早い段階で職業意識をもつことは素晴らしいと思います。ただ、大人の適切なファシリテーションがなければ、結局この目的は生徒の中に内面化できないかもしれません。

 そして授業そのものもさることながら、その準備、後片付けはとても先生一人ではできませんね。たくさんのマンパワーが必要であり、地域本部を作って地域の人を巻き込んでいる和田中だからこそできる取り組みでもあると思います。(藤原先生は逆に「よのなか科」を核に地域を巻き込むと仰っていましたが。)授業をする校長先生のほかに1グループに1人は大人が必要でしょうし、それに加えて全体に目配りをして校長先生を支えられるスタッフも必要だと感じました。

 現在の代田校長先生もまた、教師として「よのなか科」を実施されるのはまだ3回目ですし、まだまだ試行錯誤中という感じのようです。今後、授業がどのようにブラッシュアップされていくか、生徒たちがどのように変わっていくか、継続して見ていきたいと思います。


 和田中の「よのなか科」の予定はこちら。(和田中と地域を結ぶホームページ)

 その他、全国の取り組みや「よのなか科」の動画などはこちら。(全国[よのなか]科ネットワーク)


(written by tomoya)
ラベル:教育視察
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杉並区立和田中学校「よのなか科NEXT」見学 その1

 『校長先生になろう!』の藤原先生がこの3月まで、校長をされていた杉並区立和田中学校の「よのなか科NEXT」という授業を見学してきました。

 「よのなか科」は公開授業の形をとっており、見学者もまた生徒さんに混じって一緒にグループワークに取り組むことになります。どうすれば見学させてもらえるのか学校に問い合わせたところ、見学のみであれば事前連絡なしに、校門で受付をして授業開始までに教室に入っていればよいとのことだったので、行ってきました。(取材をする場合は別途、事前に手続きが必要のようです)

 2008年4月30日の回です。藤原先生は残念ながら退任されて授業を拝見できなかったのですが、後任の代田校長先生の授業に参加してきました。

 和田中は閑静な住宅街の真ん中にあります。朝8時に学校を訪れると、朝の一斉清掃ボランティア活動をやっていました。校門周りの掃き掃除や中庭の草むしりに取り組む生徒たちは、「おはようございます」と声をかけると元気よく「おはようございます」と返してくれました。

 今日の「よのなか科NEXT」のテーマは自分の好きなことを核に職業マインドマップを作ること。前の回に個人ワークでプリントに記述していたことを、5,6人のグループでまずはブレスト。模造紙の中心に「好きなもの」を描き、ポストイットにそれに関連する仕事を思いつく限り書き出し、それらをグルーピングしたり関連のあるグループをつなげたりして、最後に雑誌から関連する写真を切り貼りしてマインドマップを完成させます。

 全部で10人ほどの地域の方や外部の方の参加があったように思います。私も僭越ながら、グループに混じらせてもらいました。

 最初のグループは「海外/旅行が好き」チーム。女子5人に男子2人、完全に女性陣に圧倒されました。女の子は元気に次から次へと、矢継ぎ早にアイディアを出していく。それに対して男子はいろいろとこだわりをもっていて、じっくり考えて女子とはまったく違うものを出そうとする。

 正直、「旅行」というとそこまで広がらないけれど、「海外」を考えるとほとんどの仕事が「海外」とつながっているのだなぁ、と実感しました。「外交官」とか「パイロット」とかまさに定番なのですが、それ以外に「ミッキーの中の人」とか、これは海外でも大人気のディズニーつながりです。う〜ん、自分ではちょっと出てきません。もしくは、思いついても自分の中で否定してしまって、外に発信できないかもしれない。中学生の思考に枠をはめてしまうのは、周囲の大人が否定をするからかもしれません。「自由に発言できるんだと思える場」を作らないといけないんですね。

 続いてのグループは「スポーツが好き」チーム。いや〜、やんちゃな男子ばっかりで手を焼きました・・・。一人だけ女子がいて、その子が堅実に職業を書き出していく中、男子陣は関係ない話で大盛り上がり。全然作業が進みません。それでもさすがスポーツ好きグループ、時間がなくなると意外に手早くいろんなスポーツをあげて、職業を書き出していました。

 それにしてもまさに個性のぶつかり合い。男子は特に、こだわりが強いですね。人と違うことをする、人と違う意見を出すことにアイデンティティを見出している感じ。自分もそうだったかも・・・。

 来週はこのマインドマップをどのように作ったか発表しなければなりません。どうなるか、乞うご期待ですね。


(written by tomoya)
ラベル:教育視察
posted by ideamix at 14:23| 教育像の探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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