2008年04月29日

『競争やめたら学力世界一』その3




 最後に、欧米における新しい学力観についてその流れを整理しておきましょう。

 OECDは1968年、現在および将来の教育問題や学習問題を調査、分析、研究するためにCERI(教育研究革新センター)を創設しました。その後1988年に、OECD加盟国のほとんどがINES(国際教育指標事業)を開始しました。これは、経済のグローバル化に対応して各国の教育を共通の枠組みで比較する指標を開発することを目的としていました。

 このような流れの中、CERIは1995年ごろより教育の目標を「明日の市民を作る」ことと解釈し、従来の学力観に代わる新たな指標の開発に取り組みました。そして、教科の知識ではなく社会に出て使える実践的な能力であるコンピテンシーを測るべきだと主張しました。そこで、それらのコンピテンシーを測るべくPISA調査を開発しました。
 
 このPISA調査実施の目的は、各国の教育政策策定のための判断データを提供することにあります。それゆえ各国政府はこのPISAの結果に敏感なのです。

 PISAが測るのは問題を効果的に分析し、推論し、コミュニケーションする能力であり、読解リテラシー、数学的リテラシー、科学的リテラシー、問題解決能力の4つに分類されます。これはまさに「学力観の転換」でした。なお、リテラシーはコンピテンシーを測定可能な形に置きなおしたものと位置づけられます。

 一方で、Council of Europe(欧州評議会)も1997年にEDC(民主的市民性のための教育計画)を発足させ、「参加する市民」に必要な価値と技能を身につけさせる教育を目指しています。このEDCが想定する知識、技能、態度、価値をCore Competenciesと呼びます。そしてEDCの遂行のために各国・各界の合意の下にコンピテンシーの中身について定義・選択するDeSeCo計画がスタートしました。

 DeSeCo計画が焦点をあてたのは、Successful LifeとWell-functioning societyに貢献するコンピテンシーでした。そして学校教育の目標として、「教育はより全体的で、広範な人間的書目標を達成するものであるべきである」と結論し、核となるキー・コンピテンシーを決定しました。それらは、以下の3つに集約されます。

1、「異質集団の中で相互交流する」=ほかの人とうまく折り合い、協力し合い、チームで作業をしたり対立を解決したりする能力

2、「自律的に行動する」=物事を全体で捉えて活動すること、責任をとること、自分および自分以外の人の権利や限界を知るという能力

3、「相互交流的に道具を使用する」=ことばや記号、テキストを使って情報を駆使し、テクノロジーを活用し、相互に働きかける能力

 そして、それらの3つ中心に「省察」があります。これは自己の思考や行動を吟味すること、あるいは自分の独立した判断で自由に行動し、それに責任をもつことです。また対立する概念、矛盾する目標をひとつの現実の諸側面ととらえて統合すること、例えば対立する利益について双方が受け入れられる解決方法を見出すために交渉する能力ともとらえられます。

 また1995年、European Commission(欧州委員会)は国際的競争力の強化を意図して白書「教育と学習 認知的社会に向けて」を提出しました。この白書は1996年を「ヨーロッパ生涯教育・訓練年」と定めました。そのような中1997年、PISA学力テストが開始されます。

 そして1999年、ボローニャ宣言によって大学等高等教育機関の制度と単位数がEU諸国の間で共通化されました。2000年には「2010年までにヨーロッパをもっとも競争力があり躍動的な知識基盤経済にする」という「リスボン戦略」を設定し、「リスボン戦略」を具体化した作業計画が"Education and Training 2010"としてまとめられました。ここには、新しい能力育成には新しい教育を、そのためには新しい教育方法をという改革の流れが見て取れます。

 2003年には、EU加盟国が義務教育の目標をコンピテンシーの視点からまとめたレポートを総合して報告書"Key Competencies"が刊行されました。この報告書はEUとして共通の教育目標を設定することを目指しており、ヨーロッパ諸国は「知識基盤経済」「知識基盤社会」を迎えようとしているという合意が形成されています。

 学校教育の最終目標を「学校の外に出て効果的に機能するように学習者が準備することである」とし、教師は「記憶するための知識を提供する者ではなく、生徒がコンピテンシーを構築するプロセスを支援する者」と明記しています。そして「コンピテンシーの獲得とは、それが学習者の一部になりきることを必要とする」とし、「教える教育」から「学びを支援する教育」へと教育観を転換させています。

 フィンランドの教育は、このようなヨーロッパにおける新しい学力観、教育観の先端をいくものなのです。


(written by tomoya)
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『競争やめたら学力世界一』その2




 フィンランドの教育の特徴は、以下の5つをあげることが出来ます。

1、生徒を学力や進路などで選別しない、平等な教育。さまざまな学力層の生徒を一緒に教育する「異質生徒集団方式」を採用している。

2、生徒の自主的な学びを基本とし、競争などを導入して学習を強制しない。むしろグループで協力しての学習が多い。(社会構成主義的学習といいます)

3、教師の質が高い。教師には修士号取得が義務付けられ、社会から尊敬されている

4、小学校から大学まで授業料は無料である

5、教育の権限を地方自治体、学校、教師に大幅に委譲し、行政はあくまでサポートにまわっている。

 まず、フィンランドの学校教育制度をみてみましょう。

 初めに義務教育の基礎学校が16歳まで9年間あります。その最終学年における評定平均値で進学校が決まりますが、志望校に成績が足りない場合生徒本人の希望でさらに1年余分に授業を受けることもできます。基礎学校ののち、職業学校か普通科高校に進学し、そこで3年間学びます。直接進学せず、社会経験を積んでから勉強に戻る人もいます。普通科高校では学校間格差がないので、たいてい地元の高校に進学します。

 大学に進学するには、大学入学資格試験と、大学個別の入学試験も受ける必要があります。また、大学以外の高等教育機関として高等職業専門学校があり、ビジネスや保健、技術などの実践的な専門教育を行っています。大学と高等職業専門学校をあわせて高等教育進学者が65パーセントを占め、その他に成人学校で学ぶ人も多いので、世界有数の高学歴社会であるといえます。

 特徴の1つ目にも挙がっていますが、フィンランドの教育は「異質生徒集団方式」を採用しています。選別がないので、テストもほとんどありません。したがって、競争が存在しないのです。

 特別なニーズのある生徒(成績不振の生徒や、情緒障害や身体障害を抱える生徒)の場合は補習授業を行いますが、それもあくまで一時的に追加で行うもので、基本は統合学級で授業を行います。また、成績優秀な生徒に対する特別な教育はしていません。これは、優秀な生徒は放っておいても自分で学習できるためです。むしろ、決しておちこぼれを作らないところにフィンランド教育の特徴があります。

 この対応に見られるように、教育はフィンランドでは「福祉」ととらえられているのです。4つ目の特徴に挙げられている、無償教育もこの「福祉」の考え方から来ています。

 テストによる評価もありますが、それはあくまでも生徒個人の学習到達度を測るためのもので、他人との比較のためのものではありません。中学校の最終成績も、この到達度に基づく絶対評価となっています。

 教育の特徴の2つ目に挙げられているとおり、フィンランドの教育現場では「社会構成主義的教育」が採用されています。それは、学習を「自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動」ととらえる考え方です。

 フィンランドではグループ学習がほとんどですが、それぞれのグループの学び方もさまざまになっています。学ぶかどうかは生徒の自己責任であり、他人のジャマをしない限り何をしていても許されるのです。

 フィンランドの教育は基礎となる読み書き算盤以外は、人によって知識が異なることを認めています。教科書の知識もまた執筆者のバイアスがかかった知識に過ぎないと考えられており、あくまで自由採択となっているのです。しかしながら、教師は個々人に応じた評価を行う必要があるため、教師もまた常に学び続けることが求められます。

 教育の特徴の3つ目に挙げられていますが、このように学力差のある子供達に対して個別に教育を行うには教師の質が重要となります。フィンランドでは優秀な教師を育て、個々の教師の専門性を信頼し、教育活動を全面的にゆだねるようにしています。そして、そのために教師が働きやすい環境を整えることに腐心しています。

 教師になるには修士号取得が必須であり、高校生の間では1、2位を争う人気職です。志願者の1割しか教育系に進学できず、さらに採用で絞られるという狭き門になっています。就職してからも教師は常に自ら研究することが求められます。このように能力が高く、努力している教師を親も生徒も、社会もまた尊敬しているのです。

 教師は労働条件の割には給与が低いですが、その代わりに教える自由が許され(つまり大きな裁量権が与えられ)、社会から尊敬されています。

 教師は同一の学校にほぼ、定年まで勤めます。したがって、子供達の学力形成や人格形成にじっくり取り組むことが出来ます。子供達はたいてい地元の学校に進学するので、これは地域で子供を育てることにもつながっているようです。

 また、教育の特徴の5つ目に挙げられていますが、教育における決定権は生徒に一番近いところ、すなわち教師に与えられています。カリキュラムの決定権は自治体にあり、それを具体化して実現する権限は学校に与えられています。さらに、教え方は教師に任されています。

 このような一連の教育改革は1994年に始まり、ほとんどの教育権限を地方自治体に委譲しました。また教科書検定も1992年に廃止されました。国家が作成するカリキュラム大綱は最終学年時点での到達目標を大まかに示しただけのものとなったのです(現在は多少の学年の区切りが復活していますが)。

 また、カリキュラムはガイドラインに過ぎず、自治体の判断で改変してもよいことになっています。教科書もまた教材の1つに過ぎないと位置づけられており、どの教科書をどのように活用するかは教師に任されています。

 特徴的な取り組みを行う学校の例を紹介しましょう。ストロンベリ小学校ではフレネ教育を実践しています。フレネ教育とは手作業を重視する労働教育のことであり、生徒はパソコンを使って絵や文字を編集したり、本の出版や木工などの労働を経験します。

 フレネ教育の特徴は「共に実践し、一緒に生活する」、「learning by doing」、「地域指向、公開、開放」ということが出来ます。授業では、生徒達は自分たちで情報を集めてノートを作り、教科書は使用しません。自分のノートが教材であり、教師からアドバイスを受けながら知識を自分たちで作っていきます。「社会構成主義的教育」を実践しているわけです。

 また、学校生活を維持する仕事も生徒に与えています。グループごとに学校菜園、給食手伝い、水族館の世話などを職員とともにこなすことで、共に学校を作っていくという意識を醸成しています。市議会の議場で市内の生徒会大会があり、そこで各校の提案を審議することで民主主義の仕組みを体験を通じて学ぶ機会も与えられます。


(written by tomoya)
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『競争やめたら学力世界一』その1




 今回は『競争をやめたら学力世界一』を取り上げます。

 日本と違って受験競争もなく家庭学習も少ないにもかかわらず、思考力や問題解決力を測る国際的な学力調査で世界トップとなったフィンランドの教育現場を取材し、その高学力の秘密と、その背後の教育思想を探る、興味深い一冊です。

 2004年、OECD(経済協力開発機構)が行うPISA(生徒の学習到達度調査)、およびIEA(国際教育到達度評価学会)が行うTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)の2003年の結果が公表されました。PISAでは日本は読解力が2000年の8位から14位に転落しましたが、総じて上位をキープしました。TIMSSでも読解力を除いて日本は上位につけています。ただし、時系列を追えば順位は両者とも低下しました。

 TIMSSは初等・中等教育の第4学年(2003年は25カ国が参加)と第8学年(2003年は46カ国が参加)を対象としています。学校教育で学習した知識や計算などの技能を測定するものですが、これらの知識は国によってどの学年で学ぶかが異なります。求められる知識・技能は国によって異なるために、この結果は一律比較が困難です。

 一方のPISAはこの困難を克服し、異なる国の間で生徒の学力を比較できるように、15歳を対象に読解リテラシー、数学的リテラシー、科学的リテラシー、問題解決能力の4つを測定するもので、これは実践力や応用力、思考力や創造性を重視して評価する試験です。PISAは正解が1つしかない問題ではなく、社会における具体的な問題を解決するための思考力や問題解決能力を測るものであり、日本人にはなじみのない形式でした。

 興味深いことに、PISAの測った4つの領域の全てで上位4位以内に入っている国は韓国とフィンランドでした。韓国では予備校通いが社会問題化するほど学校外の勉強時間が長く、PISAで問われる応用問題も日ごろから勉強しています。対するフィンランドは、受験競争もなく家庭での学習時間もほとんどありません。これが、フィンランドの教育が注目されたきっかけでした。

 なお、市場原理のエリート主義教育を崇拝しているアメリカやイギリスの学力の低さもこの試験で露呈してしまいました。

 さて、実際にPISAやTIMSSでの日本の順位は低下しましたが、日本人の学力は本当に低下したのでしょうか。日本の学力分布を他の参加国と比較すると、日本は「低学力」層が多くなり、全体の平均点を押し下げていることがわかりました。つまり高学力層と低学力層の二極化が進んでおり、これはアメリカに近い分布となっています。

 一方、フィンランドや韓国などの学力上位の国は低学力層が少なく、「底辺層の底上げ」に成功しています。対するアメリカは低学力層を放置し、しかもエリート教育もうまくいっていないように思われます。アメリカは高学力層を海外からの移民に頼っている面もあります。

 PISAの結果を踏まえたOECDの分析によれば、高い学力を作り出すには、以下のような条件が必要であるそうです。

 1つ目に、フィンランドや韓国のように社会的平等、すなわち学校間格差が小さい中で高い成績水準が達成できるといいます。つまり教育システムがしっかりしていて、どの学校に子供を入れても同じように高い質の教育を受けられることが保証されている国は、学力が高くなっています。それに対して進路別・学力別に学校を分ける分岐型学校教育制度を導入している国のほうが、全体としての学力は低い傾向にありました。

 2つ目に、教育制度がうまく機能している国では学校に大きな裁量権が与えられ、生徒のニーズに個別に対応することが出来ているといいます。特にフィンランドでは、学校や教師に権限を委譲することで教育活動へのモチベーションを高め、生徒のモチベーションをも高めているようです。

 それでは、フィンランドはどのようにしてこのような高い学力を作り出しているのでしょうか。フィンランドには受験競争がないにもかかわらず子供たちは勉強しています。これは「学ぶことは自分のためだ」という意識が徹底しているためです。そして「学校を卒業してから何が出来るか」に教育の目標がおかれており、その背景には人間は一生学び続けていくものだという「生涯学習」の思想があります。

 フィンランドとはそもそもどんな国なのでしょう。国土面積は日本とほぼ等しいですが、人口は約520万人と日本のおよそ25分の1です。宗教はルター派キリスト教が主流です。ノキアを擁するIT立国であり、世界経済フォーラムの公表した世界競争力ランキングでは2003〜2005の3年連続で1位に輝いています。またフィンランドでは学校教育と経済活動をうまくリンクしていて、「大学教育が経済のニーズにあっている国」第1位でもあります。(ちなみに日本は56位、アメリカは4位となっています。)

 その2では、フィンランド教育の具体的な特徴を見ていきましょう。


(written by tomoya)
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『日本の行く道』その2




「地球温暖化問題」

 ここでは地球温暖化問題を取り上げ、その解決策を考えてみます。そもそも、温暖化の原因は二酸化炭素などの温室効果ガスを大量に排出する産業革命以降の近代的生活であると筆者は断じています。そして、このような原因が明らかであるのだから、その原因を排除することで地球温暖化を防ぐことができます。すなわち、生活水準を産業革命以前に戻せばよいというわけです。

 ずいぶんラディカルな提言ですが、筆者もさすがにそれは難しそうなので、1960年代前半の生活に戻すのが落としどころであると主張します。というのも1960年代前半から、世界の平均気温がそれまでに比べて「明確に」上昇に転じたためで、せめて1960年代前半までのペースに戻す、という目標を採用したわけです。

 ずいぶんと過激な解決策ですが、中にはなるほどと思われる発想の転換があって、温暖化を真剣に防ごうと考えるならば案外妥当かもしれません。

 (なお、科学的には二酸化炭素の排出と地球温暖化の因果関係は明確にはなっていません。確かに二酸化炭素排出量と地球の気温に相関はありますが、それが因果関係であるかどうかは、さらなる研究成果が待たれます。)

 さて、日本でも明治において、産業革命が起こります。明治政府にとって近代化の選択は必然でした。列強の植民地にならないためには、列強なみの国力をつけることが必要だったからです。

 しかしながら産業革命前、日本には技術革新をする必然はありませんでした。産業革命などなくても、必要なものを必要なだけ供給できていたのです。すると、産業革命によって必要以上のものを生産できるようになり、余剰生産物を海外市場に売ることで利潤をあげられるようになりました。これが明治政府の目指した国力の増強です。

 そして大量生産は安価供給を可能にしますが、海外市場に供給すると必然的に国際貿易競争に巻き込まれ、さらなる技術革新によるさらなる安価供給という永遠に終わらないサイクルにはまってしまいます。そしてこの「必要以上に生産する」サイクル、そのような経済のあり方こそが地球環境を破壊しているという事実がある。筆者は今こそ、「必要なものを必要なだけ生産する」社会に戻す必要がある、と主張しているわけです。そして「必要なものを必要なだけ生産する」社会では貿易摩擦も起こらず、環境破壊も起こりません。

 現在先進国である国も後進国である国もすべて、「必要なものを必要なだけ生産する」レベルで均衡を図る。つまり、経済後進国がレベルを上げるのではなく先進国がレベルを下げて水準を揃えるということです。そうでなければ、中国やインドが今の先進国並みの経済発展をとげたとき、地球環境は回復不能になっているかもしれません。

 かつて、明治政府にとって近代化、そしてそれを支える産業革命は必然でした。しかしながら過去には必然であった選択も、今なら見直せるのではないか。筆者はそう主張します。

 そして筆者が提案するそのための第一歩が、現在存在して1960年代に存在しなかったもの、すなわち超高層ビルの撤去です。すなわち、スローガンだけで終わらないために、実際に目に見える変化を世の中に起こし、人々に「本当に1960年代前半に戻すのだ」という意識を根付かせることが重要だというわけです。

 そして、都会の超高層ビルに入っているオフィスが、場所のある地方に展開することで、都市への人口集中と地方の活性化が期待できます。これを徹底するには、行政主導で実施する必要があります。

 その際、意識の転換として1960年代の日本が強くもっていた「国際競争に勝つ」という意識を捨てる必要があります。「勝ちに行く」と、再び「必要以上に生産する」サイクルに巻き込まれてしまう。そうではなくて、それぞれの国がある程度の自給自足を目指す、貿易においては「そこそこ勝つ」程度を目指すのがよい、と筆者は言います。

 ただし、注意が必要なのは筆者は1960年代前半に戻すことをあたかも「タイムスリップ」するかのように主張しているという点です。日本の人口が大幅に増えていますから、1960年代前半に戻して「必要な量だけ生産する」ようにしたところで二酸化炭素排出量は実際の歴史上の1960年代レベルには戻らないでしょう。

 しかしながら「必要以上に」から「必要なだけ」、あるいは「勝つ」から「そこそこ勝つ」へという意識の転換は非常に興味深く、意義ある主張であると思います。


「敗戦処理」

 国際貿易競争の話に絡んで、貿易競争は「戦争」である、と筆者は主張しています。そしてそのような戦争の覇者には、勝者としての義務があります。

 それは「敗戦処理」。この敗戦処理とは敗者に「負ける必然」があったことを理解させ、復讐の芽をつむこと、敗者をまた対等の相手として尊重する態度をもつこと、です。

何か事業を行おうとすると、好むと好まざると市場社会では競争に巻き込まれます。そのとき、その競争の勝者には相応の義務があるのですね。これを怠ってしまったのが、ライブドア事件だったのかもしれません。(勝者だったのかどうかはわかりませんが・・・)


「『家』というシステム」

 「家」を考えるとき、近代においては「家族のあり方」をまず問い、「家」を単なる「家族の入れ物」としてとらえる傾向があります。しかしながら筆者によれば「家」とはそれを維持するための構成員としての「家族」を必要とするシステムである、といいます。

 そこで地球環境を考えたとき、もっとも二酸化炭素を排出しているのは電気消費量の大きい「家」であるという事実を述べ、それは「家族」ではなく「システム」としてとらえなければ、なぜ「家」における電気消費量が増え続けるのか理解できないと主張しています。

 「家」はシステムである。筆者は明確に述べていませんが、「家」とは「人間(同士)が生き易くするためのシステム」であり、その境界としての入れ物としての「家」と、その構成員(中身)である「家族」の総体であると考えられます。「家族」はお互いが生き易いようにそのシステムを成り立たせる構成員であり、そのために人力エネルギーを供給します。

 しかしながら、「家」を「システム」ととらえない現代の家族は、そのシステムに必要となる「人力エネルギー」を供給しなくなりました。内部からエネルギーが供給されないので、「家」は外部から電気エネルギーを供給しなければならなくなった。その結果、「家」の電気消費量が大幅に増え、それが地球温暖化に結びついているというわけです。

 「愛情」で結びついているという感情論ではなく、お互いの利益のために構成員が役割を担うという家族像はとても新鮮です。また、この「役割」があるということが、家族にとっての精神的な拠り所、居場所になっているのかもしれません。

 学校や社会でも同じく、これらは皆システムであり、私たちはその中で役割を果たす、つまり貢献することで自分の「居場所」を保ち、また自分たちが生き易い環境を保っているのですね。自分は果たして社会に対してどのような貢献をしているのか?少し、考えてみる必要がありそうです。


(written by tomoya)
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『日本の行く道』その1




今回は『日本の行く道』をご紹介します。この本では、「今の日本の社会は何かがおかしい。でも、何がどうおかしいのかわからない。」という疑問に対して、なぜ日本は「何かがおかしく」なってしまったのか、そしてこれからどうするべきなのかを大胆な仮説を立てて論じています。

 ただ、私の読んだところでは飛躍が多く見られたように感じられたので、読んでいて新たな視点や知見を得られた部分をかいつまんでご紹介します。大変興味深い仮説ですので、全体像に興味のある方はぜひご一読ください。


「曖昧になった大人と子供の境界」

 現代の世の中は進歩して大変便利になりました。すると、かつては「この不便を克服できる能力を身につけたら大人」という明確な「大人の基準」が存在していたのに、それらの不便が技術によって克服されてしまい「これが出来れば大人、出来なければ子供」という境界が曖昧になってしまいます。

 そのため子供の成長の遅い部分が子供の「ませた」部分に隠れてしまい、「もう大人なんだから自分で判断しなさい」と、本来の子供の能力を超えた判断を大人からつきつけられることになりました。このため、大人から学ぶことが出来ず、過度の期待だけを背負わされた未熟な大人が世の中に増えているのではないでしょうか。

 『校長先生になろう!』においても、世の中が便利になったため、たいていのことは他者とコミュニケーションをとることなく技術で解決できるようになってしまい、他者との関係性を築くという経験を子供が積めなくなっていると指摘されていました。

 このような未来を生きる現代の子供たちの問題が、今の日本社会に投影されているのかもしれません。


「自立」

 筆者は「自立」という言葉が、日本においては歪曲して使用されているといいます。

 たとえば「障害者自立支援法」という法律があります。これは、まだ自立していないはずの障害者(だから自立支援法ができる)に受益者負担を求める、すなわち自立した個人を前提とした負担を求めている、矛盾した法律です。

 あるいは、ある自治体で「自立を目指す」という文章を書かせて生活保護を打ち切る例がみられました。「自立を目指す」のは「まだ自立していないから」であるはずですが、日本では「自立します」という宣言をした時点で自立したとみなされているようです。

 また、「自立」を「自分で自分のことをする」というように他者との関係を無視してとらえてしまい、人間関係が不得意な大人を生んでいるという指摘もなされています。

 私も教育関係の本を読んでいて、よく「自立」という理念を見つけるし、私自身も「自立した人間」というものを考えることが多いですが、はたして「自立」とは何なのか、立ち止まって考えてみる必要がありますね。


(written by tomoya)
タグ:思想研究
posted by ideamix at 15:39| 教育像の探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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